Amanah
読みもの
ペットと偉人

夏目漱石と、福を呼んだ黒猫

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」

日本でいちばん有名な書き出しかもしれません。この猫にはモデルがいました。

追いつめられた先生

1904年、夏目漱石は37歳。東京帝国大学で英語を教える先生でした。厳しくて立派な先生と見られていましたが、心のほうは、病気の一歩手前まで追いつめられていました。

ほおづえをつく夏目漱石の白黒の肖像写真
夏目漱石(1867–1916)

勝手に入ってくる子猫

その年の初夏、漱石の家に、黒い子猫が迷いこみます。

妻の鏡子さんは猫が苦手。何度も外へ出しますが、子猫はそのたびに戻ってきます。見かねた漱石が言いました。

「そんなに入って来るんなら、おいてやったらいいじゃないか」

木の台の上で、こちらを見つめる黒い子猫
モデルの猫ではありませんが、同じ黒い子猫です

ある日、家に来ていたマッサージ師さんが、子猫を見て言います。足の爪まで真っ黒、これは珍しい福猫ですよ。それから鏡子さんは、猫のご飯にかつお節をかけてやるようになりました。

予言は当たった

猫が来てから、漱石の機嫌はよくなっていきました。

そのころ、友人の高浜虚子が、漱石の様子を心配して声をかけます。気晴らしに、何か書いてみたらどうか。

漱石が書いたのは、ある家に住みついた猫が、人間たちをじっと観察する話でした。翌1905年に発表された『吾輩は猫である』は、大評判になります。

ふんどし姿の大きな猫が描かれた『吾輩ハ猫デアル』の表紙
『吾輩ハ猫デアル』の表紙(1905年)

それから2年後、漱石は大学の先生をやめ、新聞社に入って、小説を書く仕事に専念しました。英語の先生は、小説家になったのです。

小説の猫は、最終回で人間の飲み残したビールを飲んで酔っぱらい、水がめに落ちて死んでしまいます。でも、本物の猫はそのあとも、漱石の家で暮らし続けました。家の猫には、最後まで名前がつきませんでした。家族はただ「ねこ」と呼んでいたといいます。

気づいていたのは

1907年に一家が引っ越したころから、猫は少しずつ弱っていきました。子どもたちも、もう遊び相手にしません。

ある日、漱石が「おい、猫がどうかしたようだな」と言うと、鏡子さんは「年のせいでしょう」と、そっけない返事。漱石は「胃腸が悪いんだろう。薬を水に溶いて飲ませてやれ」と言いました。

黒い枠のはがき

1908年9月13日。猫は、物置の古いかまどの上で、いつの間にか冷たくなっていました。

次の日、漱石は弟子たちにはがきを送ります。ふちには、筆で黒い枠が描かれていました。人が亡くなったときに出す、お知らせの形です。

うちの猫が、長く病気をしておりましたが、昨夜いつの間にか物置のかまどの上で亡くなりました。箱に入れて、裏庭に埋めました。なお、主人は今、小説を書いている最中ですので、お葬式にはおいでいただかなくて大丈夫です。

(漱石のはがきを、今の言葉に直したものです)

このとき漱石は、新聞に『三四郎』を連載していました。

今でも忘れた事がない

猫は、書斎の裏の桜の木の下に埋められました。漱石は小さな墓標を立てて、「猫の墓」と書きました。35日目には、仏壇に鮭ひと切れと、かつお節ご飯を供えたと、手紙に書いています。

猫が苦手だった鏡子さんも、その後、毎年の命日に、同じ鮭とかつお節ご飯をお墓に供えました。漱石は、こう書いています。

「今でも忘れた事がない。」

猫の十三回忌にあたる1920年、夏目家は、家で飼った生きものたちのために石の塔を建てました。塔は戦争中の空襲で壊れましたが、残った石で建て直され、今も東京・新宿区の漱石公園にあります。

もしものとき、この子のことを伝えられますか?

Amanah(アマーナ)は、あなたに何かあったとき、ペットのことを信頼できる人に伝えるためのアプリです。毎日の「無事です」の見守り、家と鍵のメモ、財布に入れる緊急連絡カード。無料で使えます。