「犬公方」と呼ばれた将軍
江戸幕府の5代将軍、徳川綱吉。犬を大切にしすぎて、人々から「犬公方(いぬくぼう)」、つまり「犬の将軍」とからかわれた人です。
彼が出した「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」は、天下の悪法と言われてきました。学校でそう習った人も多いと思います。でも最近、その見方が少しずつ変わってきています。
「戌年だから」は本当?
よく知られているのは、こんな話です。跡継ぎの息子を幼くして亡くした綱吉に、お坊さんがすすめた。「上様は戌年生まれ。犬を大切にすれば、お子が授かります」。
綱吉が戌年生まれなのは本当です。でも、そのお坊さんが江戸に来たのは1686年。生き物を守る命令は、それより前から出はじめていました。この話は、あとの時代につけ足されたものではないか、と考えられています。
犬だけではなかった
生類憐みの令は、1本の法律ではありません。綱吉の時代に出された、生き物を守るたくさんのお触れをまとめた呼び名です。
守る相手は、犬だけではありませんでした。牛や馬、鳥、魚、虫。そして、人間もです。
1687年には、捨て子、病人、弱った牛や馬を捨てることが禁じられました。捨て子を見つけたら、届け出を待たずに、その土地の人が面倒を見て育てるように、とも命じています。
そんな命令が必要なくらい、当時は弱いものを捨てることが珍しくありませんでした。戦国時代の荒っぽい気風も、まだ残っていた時代です。犬は、食べられることもありました。それが、この命令のあとは食べられなくなります。
綱吉自身も、歴代の将軍が楽しんできた鷹狩りをしませんでした。
犬の帳面
江戸の町では、飼い犬の数や毛の色を帳面に書き出すように命じられました。「犬毛付帳(いぬけつけちょう)」と呼ばれる、犬の名簿のようなものです。町や武家屋敷、まわりの村ごとにつくられました。
中野の大きな犬小屋
1695年、今の東京・中野に、幕府の大きな犬小屋ができます。広さは、はじめ16万坪。のちには約30万坪、東京ドーム20個分ほどにまで広がりました。江戸の町の犬が専用のかごで運ばれ、10万頭ほどが暮らしたともいわれます。
今の中野駅のまわりが、まるごと犬小屋だったことになります。ちなみに、綱吉本人が中野に来たという記録はありません。
行きすぎた面も
ただ、いいことばかりではありませんでした。犬小屋のお金は、江戸の町の人や村に割り当てられました。犬を傷つけて、死罪や島流しになった人もいます。
「蚊をたたいただけで罰せられた」という話も有名ですが、これは当時から噂として伝わっていたもので、本当かどうかはわかっていません。
人々の不満はたまり、綱吉は「犬公方」と呼ばれるようになります。
残ったもの
1709年、綱吉は64歳で亡くなりました。生類憐みの令のほとんどは、すぐに取りやめになります。中野の犬小屋もなくなり、のちに桃の木が植えられました。
けれど、捨て子や、病気の牛や馬を捨ててはいけないという決まりは、残りました。綱吉が亡くなったあとも、長く幕府の法として守られ続けたのです。
Amanah(アマーナ)は、あなたに何かあったとき、ペットのことを信頼できる人に伝えるためのアプリです。毎日の「無事です」の見守り、家と鍵のメモ、財布に入れる緊急連絡カード。無料で使えます。
出典
- コトバンク「徳川綱吉」(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)
- コトバンク「生類憐みの令」(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)
- コトバンク「隆光」
- コトバンク「犬公方」
- 国立国会図書館 リサーチ・ナビ「生類憐みの令」
- 長谷川裕子「いのちを尊ぶ人びと」(福井大学)
- 山崎久登「書評 根崎光男『犬と鷹の江戸時代』」(九州大学)
- 北海道新聞「書評 井奥成彦編著『動物たちの江戸時代』」
- 山川出版社 Historist「生類憐みの令」
- 中野区「なかの物語 其の五」
- 中野区立歴史民俗資料館 歴史コラム
- 中野区報 2024年2月20日号
- Wikipedia「生類憐れみの令」
- Wikipedia「犬小屋 (江戸幕府)」
犬小屋の広さや犬の数は、資料によって大きく違います(16万坪〜約30万坪、4万頭〜30万頭など)。ここでは中野区の資料などにある数字を使っています。年齢は数え年です。写真は、柴犬が Pexels、肖像画と浮世絵が江戸・明治時代のパブリックドメインの作品です。