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ハチ公が待っていた人

渋谷駅前のハチ公像。帰らない主人を待ち続けた犬の話は、誰でも知っています。でも、ハチが待っていた人のことは、ほとんど知られていません。

渋谷駅前に座る秋田犬ハチ公の銅像
渋谷駅前のハチ公像。いまの像は1948年に建て直された2代目です

田んぼの先生

ハチの飼い主、上野英三郎は、東京帝国大学農学部の教授でした。専門は農業土木。田んぼの区画を整え、水を引き、水はけをよくする学問です。この学問を日本で始めたのが上野先生で、全国の田んぼを整える技術者をたくさん育てました。

先生が考えた田んぼの区画は「上野式」と呼ばれ、今も日本の水田の基本になっています。

米俵に入って

上野先生は、純粋な日本犬を探していたといいます。秋田県で働いていた教え子のつてで、大館の農家、斎藤義一さんの家で生まれた子犬が贈られることになりました。

1924年1月、生後2か月ほどの子犬は、米俵に包まれ、汽車で20時間かけて東京に着きます。名前はハチになりました。家には、先にジョンとエスという2匹の犬がいたといいます。

首輪をつけて座る白い秋田犬ハチの白黒写真
ハチ(1923–1935)

先生は、体の弱かったハチを家の中で自分のベッドの下に寝かせ、食事も一緒にするほどかわいがったと伝えられています。渋谷の家から駒場の大学まで歩いて通う先生を、ハチは大学の門まで送り迎えしていたようです。

焼き鳥屋の先生

東大の農学部には、こんな話が語り継がれています。先生は、教え子たちと渋谷駅前の焼き鳥屋で、田んぼの整備について議論していた。夢中になるとハチのことを忘れてしまい、待っているハチには、店の主人が残りものをやっていた。

帰ってこなかった日

1925年5月21日。先生は大学で倒れ、そのまま亡くなりました。ハチと暮らしたのは、1年4か月ほどでした。

先生の奥さんの八重さんは、正式に結婚していなかったため、その家を出ることになります。ハチは日本橋の呉服屋、浅草の親戚の家と、あちこちに預けられました。預け先から、渋谷を目指して走っていく姿が何度も見られたといいます。

最後に落ち着いたのは、渋谷に近い植木職人、小林菊三郎さんの家でした。ハチはそこから、毎日渋谷駅へ通いはじめます。

有名になった老犬

駅でのハチは、歓迎されてばかりではありませんでした。邪魔者扱いされることもあり、首輪を盗まれて野良犬と間違われ、捕まったこともあったといいます。顔にいたずら書きをされたという話も残っています。

1932年10月4日、日本犬の保存に取り組んでいた斎藤弘吉が、東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」を書きます。ハチは一気に有名になり、「ハチ公」という呼び名が広まりました。

1934年4月21日には、渋谷駅前に銅像が建てられます。除幕式には、ハチ本人も出ていました。

おなかの中の串

1935年3月8日の夜明け前、ハチは渋谷駅近くの稲荷橋のそばで亡くなりました。11歳でした。

むしろの上に横たわるハチと、手を合わせる駅員や人々の白黒写真
亡くなったハチを囲む人たち(1935年)

その日のうちに東京帝国大学で解剖され、胃の中から、焼き鳥のものとみられる竹串が4本見つかります。

「ハチは串のせいで死んだ」といううわさは、長いあいだ信じられてきました。ハチの臓器は、今も東大に保存されています。2011年、東京大学の獣医師たちがそれを調べ直しました。串は死因ではありませんでした。本当の原因は、心臓にたくさんいたフィラリアという虫と、肺にできて心臓まで広がっていたとみられるがんでした。

青山霊園の先生のお墓のそばには、ハチの小さな祠もあります。

90年ぶりの再会

最初の銅像は、戦争中に金属類回収令で供出されました。いまの渋谷の像は、1948年に建て直された2代目です。

2015年3月8日、ハチの命日に、東京大学農学部に新しい像ができました。帰ってきた先生に、ハチが飛びついている姿です。

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